歴代藩主とその事績
〜近世〜

土井利勝とその系譜

実は家康君の御子也

土井利勝の出生については当時から徳川家康の子供とのうわさが広まっていたが、利勝自身はそのうわさをできるだけ避けていた。公には土居利昌と葉佐田氏の娘との子供となっている。また一方では家康の従弟の水野信元説も当時から唱えられていた。

江戸時代中期には藩内で藩主の家譜調査がおこなわれ、家康の子と明記されている。

近年、地元研究者の説でも実父は家康、養父が土居利昌(三河国碧海郡土居村早乙女小左衛門利昌 家康の家臣 知行500石)が有力視されている。

十四代 土井利与
展示室2 古河の歴史へ

古河城下模型 へ

十代 土井利和(利厚)
土井利勝像
(茨城県指定文化財正定寺所蔵)
十二代 土井利亨
五代 土井利益
八代 土井利里
十一代 土井利位
初代 土井利勝

土井利位像

土井利与像

盈科堂記(古河市指定文化財)

土井利勝(1573-1644)は、二代将軍徳川秀忠・三代将軍家光の出頭人として、初期の江戸幕府の政治を支えていた。
寛永10年(1633)に古河城主、つづく15年(1638)には、江戸幕府最初の大老に就任。
利勝は、初期の幕政における重鎮として、その智謀を大いに発揮した。

土井御系譜
(潮田家歴史資料)

享保7年(1722)、土井利清の二男として生まれる。延享元年(1744)、8代土井利延の養子となる。
当時は唐津藩主であった土井家は、宝暦12年(1762)に古河へ移り、古河藩主となる。
藩校盈科堂を古河に移設する。
寺社奉行をへて、京都所司代在任中、藩医の河口信任に京都で解剖の許しを出す。これにより、明和7年(1770)に解剖書『解屍編』(河口信任著)が刊行される。
安永6年(1777)、京都にて没す。

宝暦9年(1759)松平遠江守忠名の四男として生まれる。安永6年、9代土井利見の養子となり、古河藩主となる。
寺社奉行・京都所司代をつとめ、享和2年(1802)老中となる。
文政元年には、1万石加増となり、古河藩を8万石とする。
文政5年(1822)没。

寛政元年(1789)、分家の三河国(現在の愛知県)刈谷藩主土井利徳の四男に生まれる。
文化10年(1813)、10代土井利厚の養子になる。
寺社奉行をへて、大坂城代の時に大塩平八郎の乱を鎮定し、その功績によって京都所司代を任命される。
さらに西ノ丸老中、本丸老中となり、水野忠邦失脚後は、老中首座となった。
書画陶芸等の芸術に親しむほか、公務の合間を利用して雪の結晶を観察して、『雪華図説』を著した。
嘉永元年(1848)没。

『雪華図説』 『続雪華図説』

文化9年(1812)、越前国(現在の福井県)敦賀藩主酒井忠尽の二男として生まれる。
11代土井利位の養子となる。
天保14年(1843)の日光社参のおりには、父利位にかわって古河城を警固した。
その際、藩領を巡視し、「古河紀行」という紀行文を残している。
嘉永元年(1848)、37歳で没す。

13代利則の子。土井家最後の古河藩主。慶応3年(1867)14歳で藩主となる。明治維新以後は、古河藩知事、廃藩置県にともない古河県知事などをつとめる。
写真を趣味にして、旧大名家の写真愛好会「華影会」に参加するほか、三友亭巨杉の俳号で、俳諧をたしなんだ。
昭和4年(1929)没。

土井利益像(古河市指定文化財)

土井利勝関係の企画展・特別展
智の大老 土井利勝
土井利位と『雪華図説』関係の企画展・特別展
雪の殿さま 土井利位